概要
今から八百年ほど前の鎌倉時代に、
「道元禅師(どうげんぜんじ)」が
正伝の仏法を中国から日本に伝え、
「瑩山禅師(けいざんぜんじ)」が全国に広められ、
「曹洞宗」の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、
ご本尊「お釈迦さま(釈迦牟尼仏)」とともに、
「一仏両祖(いちぶつりょうそ)」として仰ぎます。
歴史
この道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲こうん懐弉えじょう禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺だいじょうじを開かれた徹通てっつう義介ぎかい禅師を経て、その弟子瑩山禅師に受け継がれました。そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺ようこうじを継いだ明峰めいほう素哲そてつ禅師、總持寺を継いだ峨山がざん韶碩じょうせき禅師が出られ、その門下にも多くの優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのです。特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗りんざいしゅうが、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹ごさんじっせつの制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこたえ、地道な布教活動を続けていきました。しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀じだん制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学しゅうがくの研究を志す月舟宗胡げっしゅうそうこ、卍山道白まんざんどうはく、面山瑞方めんざんずいほう等の優れた人材が出て、嗣法しほうの乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法めんじゅしほうの精神に帰るべきことを主張した宗統復古しゅうとうふっこの運動や、『正法眼蔵しょうぼうげんぞう』をはじめとする宗典しゅうてんの研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈はいぶつきしゃくを断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士おおうちせいらんこじが出て『修証義しゅしょうぎ』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙あぜがみばいせん禅師、永平寺の滝谷琢宗たきやたくしゅう禅師の校訂を経て宗門しゅうもん布教の標準として公布され、在家化導ざいけけどうの上に大きな役割を果たしました。
こうしてわが宗門は、今日全国に約1万5千の寺院と、800万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。